2005.10.10

日本語の文化

日本語には、主語を言わない文化、すべてを言い切らない文化、というものが存在する。これは日本語文化の素晴らしいものの1つだと思う。すべてを伝えなくてもそこには共通認識があり、“阿吽の呼吸”のようにお互いが理解しあえる。これは俺が知りえる限りでは、他の言語ではほとんど存在しない。

 

がしかし、それは時によって混乱の原因になることもある。例えば、よくB型の人は話が飛ぶ、なんて事が言われる。B型である俺のある友人 K は、海外では問題がないのに日本では話がよく分からない、と言われるという。

確かに彼の話は良く飛ぶ。しかし、彼の頭の中ではストーリーがつながっているらしい。というのは、彼自身がその文章に対する“主語”をはっきりとさせているから。がしかし、日本語には主語を省略する文化、というものが存在するために、話を聞いている僕達にはその文章に対する主語が分からない時が多々あるために、話が続かない。でも、これが外国語(例えば英語)なんかでは必ず主語があるために問題にはならない。

 

同様に、すべてを言い切らない文化、という所でもお互いの“共通認識”がない場合には話が続かない。だから、お互いをよく知っている仲の良い友達間での話方と、共通認識が存在しない人の間で喋る場合には話方を変えなければならないと思う。特にそれがインタビューという不特定多数の人に向けてのものだったならば、なお更。

 

さて、この間のLatvia代表との試合後のインタビュー。

“不快”、“マスコミを馬鹿にしている”、“大人になれ”等々いろんなMailをもらいました。

が正直、何でこんなMailをもらうのか俺には分からない。というのも、マスコミを馬鹿にしているんだったら最初からインタビューなんて受けないし、大人の対応ってなんだ?相手の言いたいと思っていることを考慮して(あっているか分からなくても)、答えることだろうか?

例えば(こういう質問じゃなかったけど)、

 

“今日の試合は2-2でしたが…”

 

という、質問にはどう答えれば良いんだろう?この質問の先にはいくつもの可能性がある。

 

“…この結果に対してはどう思いますか?”

 

“…どうすれば勝てたと思いますか?”

 

“…どうやったら失点を0に抑えられたと思いますか?”

 

本当に上げ始めたら限りもないし、この場合の俺とインタビュアーの間には“共通認識”は存在しない。それに、インタビューというものは特定の中でだけ流されるものではないだけに、その内容をきちんと限定する必要がある。

例えば、

 

“今日の課題は?”

 

完璧なゲームなんて存在しないだけに、課題なんて上げ始めたら限りが無い。

しかし、

 

“今日の1番の課題は?”

 

という質問には1つの答えしか存在しない。これは簡単な例だけども、いかに具体的に相手に伝える能力があるか、というのがマスコミに期待されることじゃないかと俺は思う。俺は悪気があったり相手を馬鹿にするために、質問に答えることはしない。だったら最初から話もしないし…。ただ、相手がきちんと考えて質問をしていなかったり、自分が聞きたい答えを導き出すためだけの質問にはそれなりの対応をする。それが見ている人には不快に映ることもあるかもしれない。

でも、俺は必要なことだと思うし、続けて行こうとは思っている…。